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このブログ記事はフィクションです。シン・エヴァを観てきた。あとで消す

シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| EVANGELION 3.0+1.0 THRICE UPON A TIME を公開初日にレイトショーで観てきた。

 

別に有休なり半休なりも取れなくないし、初日モーニングショーという気もなくはなかったけれど、それほどのテンションではなく、それにその枠は17年待ち構えて「決着をつける」みたいなそういう本物の人のものかなと思って。普通に仕事をして、少しの残業をして、飲食店が閉まってしまわない内に食べログで2000円以下予算で一番評価の高いうどん屋で食事を取って、映画館に向かった。座席の予約はネットで事前に簡単にできた。つまらないくらい簡単だった。別に大急ぎというわけでもなかったのに。あまり期待していないからこそ4D版にした。4Dには遊園地のアトラクションみがある。以前の公開日設定の時に、6歳上のたぶん仲の良い方の長姉に(エヴァンゲリオンを)「誰も(旦那も)いっしょに観に行ってくれないから、XXちゃん観に行かない?」とLINEで言われていたけど、特に断りを入れたりもせず一人で観に行った。

 

もっとコンテンツに貪欲で、感性に富んでいる時期なら、少なくとも今現在よりもそうだったなら、モーニングショーに行ったかなと思う。結局しなかったけれど、別の映画だけど、過去には日本国内米軍基地内の映画館なら日本公開より早くみれるんじゃないか、近場の外国なら?と実際に検討とかもしていたのだから。

 

先に書いたように、そんなにめちゃくちゃ期待していたわけでもないし、だから予習復習もしていない。同時視聴イベントに合わせて見返してもいない。劇場版を観たのは各1回だけ。どれも映画館でリアルタイムでだけど。いや、『シト新生 DEATH & TRUTH』は一度も観ていない。パッケージやレンタルや配信でも。たぶん回数を一番観たのはTV版のそれも北米版のNeon Genesis Evangelion: Complete Platinum Collection (Limited Edition Holiday Special)。これを何をするでもなく、日本語音声+英語字幕や、英語音声+英語字幕なんかで、観るでもなくずっと垂れ流していたときがあった。本体$37.50、送料$12.79、合計$49.79で買ったそれは、いまみたら実際にその値段で売れるというわけではないだろうが、わたしの買ったamazon.comで$902.71で販売されていた。家のどこかには残っているはずだ、たぶん。

 

わたしがエヴァンゲリオンに一番最初に触れたのは、TV版最終回を受けての朝日新聞への大塚英志の寄稿だ。たぶん、日曜日の新聞だったような気がする。そのころわたしは新聞を毎日読んでいた。そのころと限定するには、朝刊夕刊を毎日、新聞を読んでいた時期はけっこう長いのだけど。「自己啓発セミナーに他ならない」と痛烈に断じるそれは、その後のエヴァ言論の一つの雛形になったのは間違いないだろう。その記事を読んだとき、わたしはエヴァンゲリオンを観ていなかった。そもそもアニメを観ていなかった。TV大阪はわたしの家では映らなかった。それに、夕方の放映だったはずで、遠距離通学だったわたしは放映時間に帰宅が間に合いはしなかったろう。「評論家として」「アニメ作品を」「社会的な視点から批判する」そういう仕草をわたしはかっこよく感じた気がする。嫌な中学生だ。嫌な人間なのは多分今も変わっていないけど。

 

最初に間接的でないアニメエヴァンゲリオンを観たのは、当時校舎の端にクラスがある中学3年5組の同級生で、不登校ででも系列小学校あがりでクラスに友人も多くたまには学校に来てクラスに本格ミステリを流行らす影響力があってなんか近所のおじさんに習ったとかいう空手で上手な踵落としを繰り出す辞めラグビー部の四人きょうだいの長男の男の子の家に泊まりにいったときだった。わたしは公務員家庭育ちで、2階に4部屋、一階に台所応接室仏間和室があって、トイレは2つ、最大7人が住んでいた家で育った。だからわたしは、新大阪駅から目と鼻の先にあってその必要性に疑問を持った東淀川駅からクラスの名簿の住所を頼りに歩いて行ったその男の子の下町?にある家を「狭いな」みたいな失礼な感想を抱いたものだった。

 

どうして、そういう流れになったのかは覚えていない。その前にその男の子の本棚からえっちな本、美少女ゲームのノベライズかなにかを見つけて指摘したら「高専のクラスのオタクに押し付けられた」とか言い訳をきいたあとだったろうか。いや、まだ同級生だった気もするから、それより前な気もする。電気を消して、観ていたような気がする。たぶん。その当時はVHSだったし、大阪市東淀川区だからテレビ大阪はきれいに映っただろう。だから自前の録画テープだったろうと思う。CMの印象はまったくないけれど。CMカット機能みたいな高級なものはその当時なかったはずだ。

 

女の子二人と、気弱そうな男の子が、真っ暗だったり暗くて狭い通路をなんやかんや言いながら進んでいく。そういう話だった。けっこう後になるまでどの話数か把握しなかったけれど、それは「静止した闇の中で」だった。何もなかった。その男の子は同じ敷地内にある系列の高校には上がらず、高専に進学した。あの甘い学校なら、出席日数が足りなくても内部進学できたような気もするけど、結局彼はそうした。その学校の「甘さ」は、3年後にまた別の形で当事者ではない形であるけれど目の当たりにすることになる。「(学校が)遠すぎる」とかなんとか言ってたけど、遠距離通学生が多いその学校の中ではそんなに遠くないほうだし、わたしよりよっぽど近かった。

彼は高専を1年たたず中退し、家族の仕事の都合に合わせて徳島に転勤していった。確か二十代半ばで結婚して、それから数年後には子どもにめぐまれたはずだ。

 

高校2年になったころ、エヴァがクラスで流行り始めた。そのクラスは総合コースの中では理系と外部受験志望者が集められていて、わたしは文理総合・文武両道を志向していて理系志望ということにしたのでそのクラスになった。今なら間違いなく揶揄される「意識の高さ」だ。当時だって、そう思われていたかもしれない。定期テストの平均点は他のクラスより高かった。けど、ぶっちゃけ平均点を押し下げる面子がいないだけじゃないかとも思う。上位の上位というほどの面子はいなかった気がする。そもそもその学校は、教員が定期テストの点数分布がふたこぶ山になっていると言っているくらいだから。体感値で小学校あがりが下の山を作ってる気がする。上の山は中学受験組な気がする。高校入学組は意外とばらけていた印象だ。高校から入ってきた政務官の息子くんは最初の中間テストからずっと微妙な成績でした。

その当時のエヴァブームは深夜の再放送と、TSUTAYAとかのレンタルビデオ店震源地だった。クラスであれやこれやとエヴァや引用されている様々な衒学的な単語や知識に熱弁を振るうエヴァ伝道者オタクは深夜放送で観ているようだった。学校帰りにターミナル駅の西日本最大をうたうTSUTAYAに寄ると、ものすごく大きなエヴァのコーナーができていて、しかもその多くは貸出中だった。何度も何度も確認しても、終わりのほうの話数はちっとも入荷されず、レンタルで観ようとする人たちは物語の佳境の中で中断を迫られ、結末を知る方法はTV放送をVHSに録画した知人にお願いしたり、クイックジャパンか何かに文字起こしだか脚本掲載かで掲載された最終回を文字媒体で読んだりするしかなかった。わたしはTSUTAYAでパッケージを熟読し、エヴァ以外の様々な映画のパッケージを学校帰りに熟読するようになったけど、エヴァは借りず見なかった。

エヴァはどんどんブームになっていって、経済誌やカルチャー誌で毎号のように特集されるようになった。学校帰りにわたしは字義どおり毎日、ターミナル駅の大規模書店に毎日立ち寄って九時の閉店まであれやこれや雑誌やエヴァ関連本やそうでないいろんな本を立ち読みして、死海文書だの、福音ということばの本来の意味を知ったりしていた。『パラゾ・エヴァンゲリオン』だの『スギゾ・エヴァンゲリオン』だのそういう本を読んだ気がする。学研ムックの「最新科学論シリーズ」にかぶれて、ペンローズの『皇帝の新しい心』をお小遣いをはたいて買ったりもした。

 

話は変わるけれど、学校教員というのは、もしくは熱心な学校教員というのは忙しくて、父はだいたいわたしが起きる前に家を出て、わたしが寝るちょい前くらいに帰宅するという風だった。その当時は土曜日も半日とかだけど学校もあった。日曜日は父はなんかずっと寝ていた印象だ。ものごころついてから、高校卒業までほとんど父としゃべった記憶がない。教員生活の終盤は違ったけれど、それこそわたしも小学生だったころは、父は萩之茶屋小学校とかに勤めていて、そりゃあ大変だろうなと思う。一度だけ、父の勤務先につれていってもらったことがある。学校もだけど、その周りの景色が、郊外の住宅地とまるで違ったものだったことを鮮明に覚えている。萩之茶屋だもんな。気になったかたは検索してください。熱血教員として雑誌に載ったこともあるそうですよ。父の名誉のために言うと、本人からそう聞かされたわけではない。

というわけで学校教員というのは忙しいのだけど、多少まとまった休みが取りやすいというメリットはあって冬や春にスキーやらに行ったりしていた。家族だけではなく、同じような教員仲間がそれぞれ家族連れで。なので、同年代の子ども達と子ども同士で遊べるので旅行は楽しかった。親たちは親たちで、ずっと子どもの面倒を見なくていいので楽だったのだろう。まとまった人数になることで安く泊まれたりというのもあったかもしれない。

そういう父とバックボーンを共通するひとたちの家族連れの旅行仲間というのがあって、その中にわたしとちょうど同い年の男の子がいた。上にお兄さんが二人いて、双子の妹がいる男の子だ。わたしは、彼にはなぜか当時流行っていた格闘ゲームサムライスピリッツ」のキャラクター名「ナコルル」と呼ばれていた。なんか「ナコルル」っぽいらしい。わたしも言われるに任せていた。その彼も例のごとくエヴァンゲリオンが大好きで、それに影響されたのか、わたしも1997年のたぶん7月に天王寺の地下の小さな映画館で『Air/まごころを、君に』を観に行った。記憶とその時系列を探る限り、わたしはこの時点でTV版をみていない。総集編前編たる『シト新生』も観ていない。

戦略自衛隊(語感がかっこいい!)がNERVを攻めるシーンと、エヴァ量産機と弐号機が戦うシーンはかっこよかったけど、最後の方はこれやるならTV版のままのほうがシンプルでいいんじゃねとか思った気がする。お前、TV版の内容は知ってても、見てなくね?シンジくんの「最低だ」ってシーンにはびっくりしたけど。

前述のわたしを「ナコルル」と呼ぶ彼は、「シンジくん、マジやべぇって」「アニメでオナニーとかしちゃっていいのかよ」「白いのでちゃって」とか興奮して言ってた。別に一緒に観に行ったわけではない。彼は肌荒れを気にしてしょっちゅう化粧水を顔に塗っていた。ちょっと前に結婚した彼は、最近、千葉の方にお墓が近いからかちょっと安かった新築の家を買ったそうな。

 

「序」は新宿スカラ座で見た。たぶん。確認したら、2007年9月の公開。その頃のわたしは、期待と大きく違った大学生活を苦しみながらも4年で卒業して、しつこく夢を追って1年半浪人して、区切りをつけようと入った最初の勤め先で迷惑をかけながら疲弊していたころになる。ほぼリメイクで、ストーリーラインはほぼ一緒という情報を得ていて何を求めてわたしは観にいったのだろう。ヤシマ作戦のために集結する発電設備とそれを整備する人たちのシークエンスに感動した記憶はある。そのときのわたしの人生と生活は窮まりつつあって、映画やアニメや小説とかに力をもらうには理想像を描くそれらとはあまりに差がつきすぎていて、けど何か救いを求めて観に行ったのかなと思う。

 

「破」は布施か八尾かどちらかで観た。2009年6月は私にとってとても大変な時期だった。詳しくは書かない書けない。つまらない話だ。比較的空いてそうか、席が取れそうな場所ということでそういう中途半端な郊外の映画館を探していった。わたしは綾波レイよりアスカが圧倒的に好きだった。IQが特別高いわけでも、飛び級を経験したわけでも、ドイツ語と英語をしゃべれるわけでもないけれど。英語は多少はしゃべれるし読めるという気はしないでもないけど、計測テストで誇らしげに見せれるような点数を取ったことはない。けど、釜山で同じユースホステルに泊まった韓国人と英語で話してた時に、TOEICの点だけ満点近くまで高くてもぜんぜんしゃべれないやつがいるとか聞いたし(本当にいるんだろうか?)、やめたけど東京外大英語科通ってたり1年ポートランド留学してたりわたしよりだいぶ点数よくて翻訳家になりたいとか言ってた交際相手もいっしょに海外旅行言ってる時の様子をみる限りでは会話力はあんまり変わらなかったけど。あと、全然関係ないけど、高1のときにクラスの外交官の娘の帰国子女の同級生が英検1級の単語を勉強してて「なんで儒教って単語を英語で覚えなきゃいけないの」とか言ってたけど、儒教くらいは英語で言えなきゃいけないんじゃないかなと今のわたしは思う。

 

アスカの話だった。アスカを演じる宮村優子に関するあれこれを気にする人はいただろうし、そうでなくとも男性を性的に籠絡しようとするオタク産業では無限に新しく魅力的なキャラクターが供給される。「破」のアスカの描写に、わたしは違和感を覚えたけれど、「これは式波・アスカ・ラングレーだし」と納得できることができた。それでも、アスカにしては簡単にデレすぎじゃないか。アスカはもっとめんどくさい女の子じゃないかと心の中で注文をつけていた。めんどくさいオタクだ。

真希波・マリ・イラストリアスの造形が少しアスカとかぶってる気もしたし、どちらかというとこちらの方が推されている気もした。アスカは中盤でトウジの代わりに退場し(ひどい扱いだ)、破のヒロインは完全に綾波レイだった。けれど、「破」のラストの熱い展開は、これこそ自分が求めていたものだし、観客が求めているものだと思った。14年かかったけれど、庵野秀明はこういう王道の展開にたどり着いたんだと思った。次作の予告はこれまでとはまったく違う新しい展開で面白そうだし、独眼竜アスカも登場するし、期待できそうだけど、本当にこういう王道な展開を庵野秀明が続けられるのだろうかという不安も残った。

 

「Q」に関する記憶は掘り起こしてもあまりでてこない。SNSのログを漁っても記憶が蘇ってこない。どうやらその日は、自宅を出てお付き合いしている人の家にいって、それから一人で観たっぽい。冒頭6分38秒をTVでみて、いちおう観ておくかとなったのは覚えている。終始微妙だった。Qの展開は庵野秀明ならやりそうだけど、「破」で心動かされた観客に対する冒涜じゃないかなと当時思ったし、今でもやはり思う。「破」のあのままの続きを描くのを無理だったのはわかるけど、「何もかも無駄だったし、裏目だった」というのはどうだろうとおもう。それは「シン」で報われたからとかそうではなく、やはりわたしは違うと思うのだ。作品で動かした受け手の「感情」のちゃぶ台をひっくり返すような続編を作るのは違うと。「Q」単体として見ればそれはやはり、退屈で支離滅裂な作品だと思う。同時上映の『巨神兵東京に現わる 劇場版』がはるかに心に残った。舞城王太郎ファンなんだからしょうがない。

ロジックになった批判は思い出せても、作品に対する生の批判的な感情が蘇ってこないのは、その当時のわたしが比較的満ち足りていて、ただのつまらない映画という風に生活の中で位置付けられたからかもしれない。

 

 

そして『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』である。

 

 

 

ここから先はネタバレを含む。

 

 

 

正直、ちゃんと完結しないだろうと思っていた。TV版、劇場版で、ああいうラストを繰り返してきた。Qで「破」のみんなが望んだエンディングのちゃぶ台をひっくり返した。そういう「実績」が庵野秀明にはある。タイトルも意味深で、完結しないことを暗に示しているようにも思える。

 

 

冒頭のシークエンスは種々の媒体でご覧になられた方も多いだろう。Qでもプロモーションとして公開された。わたしもyoutubeで観た。4Dということもあって、派手なアクションシーンは楽しめたが、やはり初見でないというのは新鮮味にかける。先日観た映画『テネット』冒頭のオペラハウスのシークエンスは、まったくの初見ということで緊張感を持って楽しめた。それと比較すると、この冒頭公開というプロモーションは、効果的であっても作品の強度を落としてしまうように思い賛成できない。

 

 

魅力的なアクションシーンのあとは、意外にも直接素直にQのラストに繋がった。三人を迎えに来た人物にわたしも驚いたし、みなさんも驚くだろう。破からQで14年の年月が経っていると示されてはいたが、14歳が14年経つと28歳になるわけである。2021年の14年前は2007年になり、「序」の公開の年だ。14年の月日を突きつけられる。あなたはこの14年間何をしてきましたか?

 

 

シンエヴァ予告編の45秒に出てくる雪の中毛糸の服と帽子で身をくるんだ女の子。あの女の子は、XXXちゃんの成長した姿だとこの日常生活シークエンスの中でわたしは思った。そっくりとしか思えない場面があったので。そこから、この女の子が無事にあそこまで育つということは……などと展開を正直予測した。結果、その予測はまったく外れていて、あの女の子は素直にXXXだったわけだが。

 

この日常生活シークエンスをわたしは楽しめなかった。はっきりと、かなり。綾波の「XxXXさん」が交流の中で感情を学んでいくのも、シンジの心を閉ざしている姿も、「またか」という思いが拭えなかった。わたし自身がかつて苦しんでいた姿だって、はたからみればこうしたものにすぎなかったんだろうなどと感じもした。これは、作品それ自体には関係のない話だ。でも、あらゆる作品はそのように鑑賞される。劇映画の展開としても、このあとシンジがエヴァに乗ることは必然的で、XXの結末もあまりにお膳立てされすぎているようにも感じた。それもまた、ゼーレのシナリオ通りだったにしろ。

 

わたしが初見前に観たプチネタバレというか事前考察は3つあった。

・シン・エヴァ(の一部)もしくはQは作中作

・ケツ!

・観終わったあとXXに行きたくなる。

・冒頭公開

以上!。

 

おしりの描写はよろしいものでした。ただ、わたしはそれよりXXXがずっとノーブラなことのほうが気になりました。「エヴァの呪い」とやらは乳が垂れるのも防いでくれるんでしょうか?というかあの感じだと、XXXは14年間ノーブラ生活っぽいですよね。無敵のクーパー靭帯がうらやましい。作中描写されるXXXの乳房が14歳として一般的なのか豊かなほうなのかコメントは差し控えますが、マリに比べるとかなり慎ましやかなようです。

 

作中でたびたび呼びかけられる「XンXン」が、わたしが別の活動で使っているハンドルネームなので、呼びかけられる度にすごくむず痒く感じました。たまにある本名や名前のフィクションとリアルの衝突。困りました。はなしに聞くお母さんの名前のキャラだと抜けないというやつでしょうか?

 

 

XXXくんが家出したあとの居場所がとても雨風しのげそうにもなく、トイレもなさそうだったんですが、あれはXXXくんが作中でも言及されているように半ば人間でなくなっているから大丈夫ということですよね。まぁそういうことんなんだろうなと思いつつ、それでもやっぱり気になりました。けっこうな期間っぽかったですし。

 

 

XXXxXXとXXXさんのXの登場ですが。わたしは嫉妬しました。フィクションの登場人物に。XXXさんは、キャリアを十全に全うしつつ、愛した男性とのXをもうけている。その愛した男性ももうXXXいて嫌いになることも離婚することもない。フィクションの登場人物とはいえ、XXXさんは女性としての満足を得ている。妊娠・出産にまつわる諸々の不都合の描写をふっ飛ばし、ただ結果として。自らの手で産みながら、直接育てないことに関するリアルな不都合も、そのことに思い悩む子の側の描写もすっとばして、とても良い子に育った年頃の男の子として作中に登場し。フィクションの登場人物に、それでも嫉妬しました。

 

 

そんな話はおいておいて、アスカの遊んでるGUNPEIおもしろそうですね!いま遊ぼうとしたら、ニンテンドーDS版かPSP版が一番手に入りやすいのかなー。嫌なことがたくさんあるとき、無心にパズルゲームやりたいですよね!ノーブラで!

 

 

Qから主要な新規女性キャラ2名、キャラクターとしては魅力的なんですけど、物語の中での立ち回りとしては舞台装置すぎると感じました。話を駆動させるために配置され、動かされたと感じられてしまいました。キャラクターの動きに何の驚きも感じません。XXラちゃん、かわいいんですけどね。

 

アスカとシンジの元カレ元カノ感すごかったですよね。いや、作中描写に寄せて、学生時代に付き合ってはなかったけど相互の好意に気づいていて、でも進展しなかった同士とかでも構わないんですが。高校2-3年生時代の友人にもろそういうのいたんですが、残念ながらわたしにはありません、そういう経験。あります?そういうの。

 

また、昔話になります。かつて、新劇が発表される前、オタクはなんやかんやとエヴァンゲリオンの作品の解釈を行っていました。作中描写からの考察を深めるもの、作者の意図を探ろうとインタビューを読み漁るもの、そして作品を制作関係者の人間関係の投影とみなすもの等です。大学生時代の知人の、あるオタクが一番腑に落ちたのが、三番目のバリエーションでした。エヴァという作品は庵野秀明から宮村優子への恋愛感情とその失恋が投影されているというものです。作家論より作品論派のわたしは、そういう解釈もあるんだという程度でしたが、その彼はこれぞエヴァンゲリオンの真理というようにそれを奉じていました。

なんかそれを思い起こしたんですよね、今作でのアスカとシンジの関係。宮村優子庵野秀明も、もう大概いい年ですし。アスカとシンジに、TV版や旧劇で自身を投影していた人たちも28歳どころではない年齢になってます。そして、28歳どころでなく42歳とかになっていても、アスカやシンジみたいな精神性のママな人も少ないとは言えないでしょう。おそらく。あなたのことですとまで言ってませんからね。

 

そもそもですねー、破からのマリというキャラクターの投入自体、アスカの比重を下げる試みとしか思えません。まあ、声優としての脂の乗り方という点で、アスカ役と遠山和葉役くらいしかしていない宮村優子と、第一線で活躍し続けている坂本真綾ではかなりの差があります。宮村優子庵野秀明の関係に興味はありませんが、「惣流・アスカ・ラングレー」「式波・アスカ・ラングレー」というキャラクターを主軸・メインヒロインとして描くことはできないと原作者庵野秀明が感じたことは確かなように思います。それこそ、「破」の制作の時点から一貫して。

アスカ派な私にとっても、マリからアスカへの「姫~」とやたらなスキンシップは魅力的だったんですがそれはおいても、マリをみてると、これって、庵野秀明の妻であり漫画家の安野モヨコ投影してるんかなーっと思ってしまうわけでして。いや、安野モヨコの造形とか姿形とかルックスとかキャラクターとかって、『美人画報』は読みましたが、あとはぽつぽつとしたインタビューでしか知らないんですけどね。いや、さっきお前作家論には与しなかったんじゃないんかと。いや、でも、だって。最後にゴニョゴニョ。

 

終盤の展開のところは、予想外というわけでもなく、あー作中作という憶測とかこの辺のところから出てきたのねというところではありました。ビルほどの大きさのはずの汎用人型決戦兵器がXX大でXXとかで戦ってるシーンはちょっとギャグっぽさを感じてしまいましたが。ゲンドウの動機のところはいまさらいじることもできないでしょうし。タイトル回収も、あ、ここでタイトル回収とかするんだな程度で。

 

というわけで中盤から終盤にかけて、正直 "Not for Me"ということばがかなり頭に浮かびました。純粋な作品としての巧拙を論じるような立場ではわたしはありませんし。

 

けどですね、あのラストシーンからの”One Last Kiss"あれでスーッといろんなもやが晴れていきました。なんでだろう、"One Last Kiss"のイントロが最高でサビが最高な名曲だから?旧劇みたいなしゃらくさい現実をひっぱってきてのメタフィクションとかじゃなく、作中世界と鑑賞者側現実世界とをベーシックに行きて帰りし物語としてパッケージにしているから?26年間アニメ作家映像作家として積み上げてきた人間の集大成とそうでない人間=わたしとして、終劇に向き合えたから?

 

わかりません。別に26年間に限らず、わたしの人生のバランスシートには償却できない負債が積み上がり続けているし、たぶん、わたしは何もなせぬまま90歳とかまで生きる。父方の祖母は94まで生きたし、内祖父は82歳だし、外祖母も80半ばまでだった、父も母もかなり元気だ。わたしはタバコを吸わない。お酒もたまにしか飲まない。元気な父はだいたい晩酌している。食堂でお昼を食べるときには野菜を欠かさないし、炭水化物を取りすぎないようにしている。甘い飲み物はさけて、基本ノンカロリーな飲み物だ。コーヒーもがぶ飲みはしない。もう、そういう生活に慣れてしまった。

2日の睡眠時間は4時間ですな材料系株アカみたいな研鑽もできないし、心拍がおかしくなるほどのポジションも取らないし取れない。

 

わたしの人生は続く。納得のいく銘柄考察も書けていません。

今度こそ、週末には銘柄考察の記事をあげたいと思います。

明日も年度の締めくくりの大事な会議があるんですが、こんな記事を書いてます。

 

観終わったあと、"One Last  Kiss"をiTunes Storeで購入DLしようとして、オールドタイプだなーと自嘲しました。いまはふつうサブスクですよねー。しかも、配信日の3/9になってるのに購入できませんでした。翌朝には買えたけど。

 

あと、宇部に行きたいですね!

作品の舞台にいっても別に何もないんですけど。

 

帰り道、youtubeで”One Last Kiss”をヘビロテしながら、エヴァンゲリオン銘柄を考えてました。素直に4208 宇部興産だ!わたしは(実業で)取引したことはないけど、先輩は大口として仕入れてたぞ!ポリラップだ! 信用全力買いや!と思って寝ました。

3/9 寄付き成り行き買いいれてませんでした。

というか、時価総額2549億円とかなんですよね。期待したよりかなりでかい。

しかもトヨタ絡みとか化学関係ですでに年始から1.5倍。

とか言い訳してたら、寄付きは2350円で前日から+43円。地合いも良かったですけどね。そこからさらに終値2400円、高値2405円と大陽線でした。出来高も100万株超えでけっこう多いほうです。

やっちゃったー、まぁ余力なかったんですけどね。

けど、本物なら既存ポジを整理して余力を作ってポジ作るんだなー。

 

おやすみなさい。